幸せの香りをあなたに

仄暗さの中の美しさ『陰翳礼讃』

 古典的世界を愛し、文学の上ならず実生活でも自分の美意識を貫いて生きた作家・谷崎潤一郎は、昭和8年『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』という随筆を発表します。
 仄暗い闇が作り出す日本の美しさの真髄を描いたこの作品は、時代を通じて褪せること無く読み継がれてきました。
 蝋燭やガス灯の明かりが頼りだった時代とは、もはや私たちの想像しがたい世界かもしれませんが、光と陰の織り成すそうした空間が、日本人の美意識を育み、そして今日に続く文化の土台を築いてきたのです・・・。
『陰翳礼讃』谷崎潤一郎著

筆と紙のこと・・・

『陰翳礼讃』谷崎潤一郎著 1933年(昭和8年)より

 谷崎は、ヨーロッパで生み出された万年筆をとりあげてこのように解説しています。
 まさに現代の私たちが使っている毛筆ペンの誕生を予知したものでしょう。
 そしてさらに、日本が西洋の文化から誕生したペンを取り入れずに東洋で発展を遂げた毛筆文化をつらぬいたならば、漢字や仮名にたいする愛着も深まり、しいては思想や文学さえ西洋の模倣でない独創的な世界を築いていったのではないかと説いています。
 考えてみれば私たちの受けた教育の場面で、毛筆を握るのは書道の時間だけでした。
 筆先に漆黒の墨をタップリ含ませ、真白き半紙へと落とすあの緊張感は、自然と背筋をピンとさせ呼吸までを整える所作かもしれません。
また、墨から漂う独特の香りや、和紙のザラッとした温かみのある手触りは、東洋独特のものといえるでしょう。  墨には、菜種油などの植物油を原料とする油煙墨と松の木を原料とする松煙墨とがあります。ともに燃やした煤を集め、膠(にかわ)を練り合わせて作るのですが、この膠の匂いを消すために、古来より龍脳や麝香などの香料が用いられているのです。
 これらの香料の防腐作用によって、墨は腐ることなく保存され、摺ることでさらに心地よい芳香を漂わせます。
 “書く”という日常あたりまえの行為が、知らず知らずに民族に及ぼしている影響というものを、この文章からあらためて考えさせられるのでした。

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