幸せの香りをあなたに

椿に魅せられた人々

大徳寺~千利休の愛した京椿

 鎌倉末期に創建された「大徳寺」は、様々なエピソードを背景に現在も洛北随一の威厳を保つ禅寺です。
 一休禅師が寺を再興するにあたって、力を蓄えていた茶人や茶の湯好きの大名の援助を得たところから、茶の湯の世界との縁がより深まっていきました。
 茶人・千利休の切腹に至る発端も、この寺にあります。
 大徳寺の美しい朱塗りの門「金毛閣」の上層を寄進した利休は、その二階部分に仏殿を設え、数体の仏像と共に雪駄履きの利休像を安置しました。
 茶の湯好きの秀吉が大徳寺の茶会に訪れるとき、利休像の足の下となるこの門をくぐらなければならないという必然が秀吉の怒りに触れ、利休は切腹を命じられてしまうのでした。
 しかし当時、寄進主の像をかかげることは決して珍しいことではなかったといわれています。
 この言いがかりともいえる無謀な仕打ちに、利休は詫びることもせずある狂歌をもって死を選ぶのでした。

『万葉集』 坂門人足(さかとのひとたり)

「私は、なんと果報ものよ。死んで菅公になるのだから・・・」

 管丞相とは、平安時代の学者・政治家であった菅原道真のことをさしています。
 学問に秀でた道真は、やがて右大臣の地位まで登りつめますが権力争いにまきこまれて左遷され、無念のうちに命を落とすのでした。
 しかし彼の死後、都には天変地異が多発し宮中の清涼殿に落ちた落雷によって死者まででてしまいます。
 これを道真の怨霊の仕業と恐れた醍醐天皇は、次第に衰弱しとうとう崩御されてしまうのでした。
 そこで朝廷は、彼の御霊を鎮めるために太政大臣の位をさずけ北野天満宮にお祭りすることにします。
 現在、北野天満宮では2月25日に「菜種御供」の祭りがおこなわれ、学問の神様となった菅公(天神様)の霊を慰めて紅白の梅の花をお供えする慣わしですが、昔は“なだめる”“なだめ”に通じるとして菜の花をお供えしていました。
 千利休が切腹を命ぜられ、最後に生けた花は菜の花だったと伝えられていますが、死して神になった菅原道真への思いが、居士の無念をあらわす象徴としてこの花を選ばせたのかもしれません・・・。

大徳寺の塔頭


聚光院
 1591年2月28日、自刃して果てた千利休の墓が祀られおり、茶道の表・裏・武者小路の三千家の菩提寺でもあります。
 「利休忌」には、胡銅の経筒に菜の花が生けられ、静かに冥福を祈る茶会が執り行われます。
 この塔頭には利休作と伝えられる枯山水の庭があり、“宗胆椿”や“曙椿”などの名花が美しく咲きほころぶのでした。

 豊臣秀吉が、織田信長の葬儀を執り行ったことよって大名との繋がりが深くなった大徳寺では、室町後期から戦国武将が競うように塔頭(たっちゅう)を造るようになりました。
 塔頭とは、もともと高僧を祀る伽藍のひとつでしたが、次第に諸大名が自分の菩提を弔うために大寺を囲むよう建設された別院のことをさします。
 大徳寺には、22(24とも伝わる)もの塔頭が建立されました。

「大徳寺・塔頭の地図」
総見院
 1582年、秀吉が滅ぼした信長の菩提を弔うために建立した塔頭で、春と秋に公開されています。
 3つの茶室をもち、秀吉が利休から譲り受けたという樹齢4百年の紅白“胡蝶侘助椿”があります。
「胡蝶侘助」
高桐院
 紅葉の名所としても有名なこの寺は、明智光秀の娘で戦国の世にキリスト教の信仰を貫いた美しい女性・細川ガラシャ夫人のお墓が安置されています。
清らかに整えられた庭に、ゆったりとした時間が流れるなか、白地にほんのりと淡い紅をさした優しい椿“雪中花”が咲きほころびます。
「雪中花」
大仙院
 国宝指定された本堂を持つこの本庵は、中国の山水画を思わせる白砂の枯山水の庭園が有名です。
 雄蕊全体が弁花して花心部に美しくまとまった唐子咲きの椿“紅唐子”や“白侘助”が有名です。
「紅唐子」
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