平安貴族が西方浄土に憧れて造らせた「仏間」は、室町から桃山時代にかけて「書院造りの床の間」へと変化していきました。
そして、この神聖な場所には、格の高い花が生けられるようになります。
“立花”とは“花をたてる”と書くように、天へとまっすぐに垂直に伸びるシン(真・心)の花がすえられ、神の宿る床の間を飾るにふさわしい「正統派の花の姿」といえるでしょう。
花入れには品格ある胡銅や青磁の器がもちいられ、そこには無限なる宇宙を感じさせる空間が成立します。
1380年6月9日 この日、二条良基邸にて記録にのこる日本始めての「花会」が催されました。
この会は、花の名手とされる公卿と数名の僧侶を加えた24名が、12人ずつに分かれて花を生け、その優劣を競うというものでした。
このように花を立てるという新しい芸術が注目されていく中、仏事に花を 楽しむという「七夕法楽の花会(たなばたほうらくのはなかい)」が、公家・ 将軍家において盛んに開催されるようになっていきました。
そして次第に、一年をとおして時節の花を殿中に飾るということが、恒例 となっていきます。
将軍家の所蔵する唐物を管理し花を生けるのは、京都の六角堂頂法寺の僧 である池坊専慶(いけのぼうせんけい)や文阿弥(もんあみ)など花の名手たちに任されました。
こうして、さらに進化していく桃山文化の華麗な建築に合わせるかのように、「立花」の様式は、堂々とした装飾性を強めていきます。
「花を生ける」という文化は、中国における文人のたしなみであった挿花と、宗教的意味合いのある供え花を基とし、日本人の精神的な美意識を表す場を得たことで発展し、権力者の庇護のもと、この室町の時代に根を下ろしたといえるでしょう。