江戸時代にはいり、商人の経済力の成長を背景に“茶の湯・香道・生け花”などの芸事が民衆にまで広まっていくようになります。
「生け花」の世界では、数々の流派が誕生し、まさに隆盛の時代を迎えたといえるでしょう。
室町時代に起こった神へとむかう正統派の花「立花」と、茶の湯から生まれた草庵の花「投げ入れ」は、その伝統を踏まえた上で新たに発展していきました。
現代では、たしなみのひとつとして多くの女性が「生け花」を学んでいますが、その昔は男性の世界であったことをご存知でしょうか。
花に対して、ことのほか熱中していた後水尾天皇は、寛永6年じつに33回もの「立花会」を催しています。
中でも、7月に開催された「七夕大立花会」は、僧侶である2代目池坊専好の指導・採評のもと、49人もの出瓶でおこなわれました。
この会が画期的なものだった訳は、天皇みずからの花会ながら身分階級を越えた人選がなされたことでした。
身分制度の根強い時代に、己の出生に関係なく実力でのし上がる事のできる数少ない道筋に「生け花」が台頭してきたのです。
公家から僧侶そして町人、さらに日本の農村にまでも「花を生ける行為」は普及していきました。
男達は、畑仕事や山への帰りに花材となる草や花木を採って集まり、法恩講や青年団の集まりなどで花の稽古を行うのでした。村人の手よってお寺の本堂に立派な立花を生けこむことも、常として行われていたようです。
やがて、家元制度が生まれ階級というシステムの発展と共に、さらなる急速な広がりを見せた「生け花」は、次第に女性のたしなみとして庶民の間に浸透していくことになります。今では考えられないほどに、女性が社会で認められることの難しかった時代において、生け花の世界は数少ない女性の表現の場となっていったのでした。
時代を追って、祖先の花に対する扱いの歴史をみてきました。
「花を飾る」というその行為は、祈りであり喜びであり、時に表現でもありました。
常に私たち人間のそばに寄り添い、語らずして何事かを諭してくれる、その声なき草花の思いに、人は魅了され続けていくのでしょう・・・。