織田信長と豊臣秀吉が、天下人として日本を支配していた時代に生まれた“安土桃山文化”は、戦乱を生き抜いた大名そして新興の豪商人たちのエネルギー溢れる、じつに豪華絢爛なものでした。
信長の築いた安土城や秀吉の伏見城など、当時の城には雄大な天守閣やきらびやかな障壁画がほどこされ、その威風堂々たる様式は、膨大な富と権力を誇示しています。
次第に頻繁になる南蛮人の渡来は、異国情緒溢れる西洋の文化を大量にもたらしました。
また秀吉の朝鮮出兵によって連れてこられた李朝の優れた陶工職人による陶器製作など、様々な新しい文化様式が日本に流れ込んでくる事になります。
海外との交流は、豊かになっていく日本の経済力をさらに活発にしていくのでした。
そうした中、安土桃山から江戸時代にかけて、「茶道」と「香道」は、権力者の教養としての地位を確立していきます。 茶道の世界では、果てしなく広がっていく華麗な「大名茶」に対して、対極ともいえる「侘」を追求した「侘び茶」が千利休により大成されます。
香道は、より複雑な「組香」が主流となり、鑑賞よりも手前や儀礼作法が優先されるようになっていくのでした。
名香とよばれる香木は数々ありますが、そのなかでも時代を物語る逸話をまとったひとつの香木をここでご紹介しましょう。
ある事情から四つに分断されたこの伽羅木は、それぞれに渡った名家によってそれぞれの“香銘”が授けられました。
それでは、分断されたこの香木のいきさを、ある小説から探っていくことにしましょう・・・。
明治天皇大葬の日に殉死するという乃木大将夫妻の出来事に感銘を受けた森鴎外は、江戸時代の書物「翁草」にあった香木のエピソードを、小説「興津弥五右衛門の遺書」として発表しました。
【物語のあらすじ】
風雅な大名であった細川三斎(細川ガラシャ夫人の夫)は、異国船が入港することを聞きつけ、家臣の興津弥五右衛門と横田清兵衛に珍物を求めてくるよう命じます。
長崎に到着した二人は、ベトナムから無類極品の沈香が到着していること知り歓喜するのでした。
荷揚げされた最高級の香木・伽羅は、同じ木ながらより上質の元木と末木に分断されていました。
困ったことに同じく仙台の伊達家より唐物を手に入れようと来合わせていた役人と、この香木をめぐって競い合いがおこり値段はどんどんとつりあがってしまいます。
困り果てた横田は、「これほどに大金となれば、もともと同じ木ゆえ末木の方にしても良いのではないか」と進言します。 しかし興津は、「それでは珍しきものを求めて来い、という主命に背くこと。伊達家に元木を譲るなど、細川家の名を汚すようなことは決して出来ない」と言い募ります。
二人の口論は次第に激しくなり、ついに興津は横田を斬り殺してしまうのでした。
その後、首尾よく元木を手に入れた興津は、熊本に帰り主君に切腹を願い出ます。
しかし、三斎は「それがしへの奉公の為に討ちし事なれば切腹するいわれなし」とした上、横田の遺児を呼んで「遺恨を遺すべからず」と双方に酒盃を交わさせて、この一件を取り成すのでした。
寛永三年、細川家に行幸した後水尾天皇は、この名香の香りを聞いて感銘を受け歌をしたためます。
この歌から、細川家の香木に「白菊」という香銘がつけられました。
その後、無事に奉公を勤め上げた興津は、三斎の逝去後、その一周忌に大徳寺和尚の引導によって潔く殉死、自らの魂に終止符をうつのでした・・・。
この香木は、それぞれ伝わった名家によって4つの香銘がつけられましたが、じつは宮中に献上されたといわれる「藤袴(蘭)」の出所は依然謎につつまれたままなのです。
しかしながら、時代を通じてこれ以上の名香はないとまで言われる極品の「一木四銘」の香木の背景には、このようないに命をかけた武士の生き様が秘そんでいるのです・・・。
その後、徳川の時代に入り戦乱のない平和な江戸時代にはいると、庶民生活も豊かになり香りの楽しみはさらに広まっていきました。
という古今和歌集の歌より名づけられた匂い袋“誰が袖”が大流行し、“そで香炉”や“香枕”“掛香”など生活を彩る香りの品々が人々に浸透していきます。
花形の袋に仕立てた香袋“花袋”や“浮世袋”などが、遊女の間でおおいにもてはやされるのでした。
なかでも伽羅の香りは、庶民の手の届かない憧れの対象としてその名をたかめていきます。
次第に、“高級なもの・素晴らしいもの”の代名詞として“伽羅”という名称がつけられるようになり、髪型が乱れないように蝋に松ヤニ・白檀・丁子・甘松香などを加えた“びんつけ油”には「伽羅の油」という名称がつけられました。
参考図書 「王朝のあそび」紫紅社
「香りの美学展図録」 青遊社
「香道入門」 淡交社
「正倉院の宝物と平安時代」 淡交社
「正倉院の調度」 至文堂