2014年10月10日
日本の香り草枕
このようにイグサを代表とする自然の草花には、
心を穏やかにするだけでなく
香りの成分で不調を癒してくれる力があるのですね。
芳香を持つ植物を枕とした日本の歴史には、
次のような草花も登場しますのでご紹介しましょう。
「菖蒲」と「藤袴」と「菊の花」
菖蒲枕
菖蒲には、
血行促進や健胃作用などの薬効があり
古代中国では仙薬とされてきました。
奈良平安時代、日本は盛んに中国の風習を取り入れていましたが
伝来した五節句のひとつ端午の節句には、
この菖蒲を用いて薬玉を飾ったり軒に葺いたりまた、
薬酒として飲むなどしていました。
さらに香り高い菖蒲の葉を
15~20センチほどに切り束ねて枕にした”菖蒲枕”は、
室町の武家社会においてショウブが”尚武”に通じるところから
家督を継ぐ男子の出世を願って、
その葉を枕の下に敷いて寝るという形に変化していきます。
菖蒲には、自律神経を安定させ安眠や目覚めを良くする効能
があるといわれますので不眠にお悩みの方はどうぞお試し下さい。
藤袴枕
今年も神無月(10月)をむかえ
秋が深まりつつありますが、
私が今もっとも心惹かれる秋の草花の香りに
”藤袴”という植物があります。
秋の七草のひとつにも数えられているこの草には、
桜と同じクマリンという成分が含まれており、
何とも哀愁漂うどこか懐かしいような芳香をもっているのです。
平安時代、
藤袴は上品で趣ある風流な香り草としてとして愛され
『源氏物語』にも登場しています。
「・・・薫君の身体の芳香に競争心を抱いた匂宮は、
自ら調合した薫物を衣に焚き染めることを朝夕の仕事にしまた、
一般の人が好まれる心地よい花の香りでなく
老いを忘れるという言い伝えの菊や枯れ果てていく藤袴、
地味な印象の吾亦紅(ワレモコウ)などを
すっかり霜枯れてしまうまで捨てずにおき、
その侘びた香りを愛する風流人を気取っているのでした。・・・」
~源氏物語「匂宮」より~
光源氏亡き後の物語に登場するプレイボーイの貴公子”匂宮”は、
不思議な体臭を具えて生まれたライバル”薫君”をうらやましく思い、
ことのほか香りに競争心を燃やします。
草花は乾燥することで水分が抜け香りがさらに強り広がりますが、
そうした侘びた草花の香りにひたり
大人ぶった粋人をきどっているところが面白い場面ですね。
藤袴には、解熱・鎮静・利尿作用があり、
平安時代の姫君たちは髪を洗ったあとの香り付けに用いたり
枕の詰めものにも利用してその芳香を楽しみました。
河原などに自生する原種は、
現在絶滅の危機にさらされていますが、
園芸店に改良種がでまわっていますので機会がありましたら
どうぞ藤袴の何とも雅で温かい香りを聞いてみて下さい。
菊枕
秋の花 “菊”は
ヨモギに似た清涼感あふれる日本を代表するお花です。
「重陽の節句」とは五節句のひとつで、
菊の盛りである九月九日に
菊花を飾り、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲みかわすなど、
長寿延命を願ってさまざまな行事がおこなわれました。
また、前日の夕刻から菊の花に綿を被せ翌朝、
露でしっとり濡れた綿で肌をぬぐうという
“被綿(きせわた)”もそのひとつの行事で、
菊花の香りの染み込んだ朝露とともに
人々の老いをぬぐい去るという意味合いがあったのでしょう。
同様に菊の花をほぐして乾かし枕に詰めた「菊枕」にも、
菊の香りに精神を感じ
長寿の願いとともに作られてきたという歴史があります。
最後に、ある女性により贈られた切ない菊枕のお話がありま
すのでご紹介しましょう。
~杉田久女の菊枕~
大正から昭和の初期に活躍した女流歌人”杉田久女”は、
高浜虚子に師事し「ホトトギス」の同人のひとりでした。
大変に美しく頭の良い彼女は、
俳句の世界に高い理想を持ち
女流歌人をリードするように才能を開花させていきます。
が、人並みはずれたその情熱は人々を圧倒させ、
身勝手とも捉えかねない行動となってしまうのでした。
度重なるそうした行いの結果、
次第にうとまれ孤立してしまいます。
追い詰められた彼女の心は、
沈むばかりかますます激しさを増し、
尊敬する師である高浜虚子へとむけられるのでした。
しかしそれは、悲しいまでに一途な手紙を毎日のように送り続けるなどの
病的なものとなり、ついには破門されてしまうのでした。
激しいショックと失意のうちに久女の精神は混乱を極め、
精神病院での暮らしを余儀なくされてしまいます。
そして1946年、
復活の機会も無いまま56歳という若さで
心の通うことのなった夫に看取られ亡くなるのでした。
十七文字の句作の世界に没頭し、
その性格から数々の誤解を受けてしまった杉田久女。
まだまだ封建的な風潮の根強い時代に生きてしまった不幸が
彼女の苦しみを増長させてしまったのかもしれません。
しかし、彼女の俳句の中には、
じつに細やかな女性を感じさせるのもが多々あります。
その中に長寿の願いを込めて高浜虚子に贈った
菊枕をつくる様子を表現した十句が残されていますのでご紹介いたします。
菊摘むや 群れ伏す花を もたげつつ
摘み移る 日かげあまねし 菊畠
菊干すや 何時まで褪せぬ 花の色
日当たりて うす紫の 菊筵
縁の日の ふたたび嬉し 菊日和
門辺より 咲き伏す菊の 小家かな
愛しょうす 東りの詩あり 菊枕
ちなみ縫う 陶淵明の 菊枕
白妙の 菊の枕を ぬひ上げし
ぬひ上げて 菊の枕の かをるなり
自分で育てた菊畑の花を摘み取り
嬉々として楽しそうに部屋中に広げ乾かす久女の様子が目に浮かびます。
菊の花は大変に乾きにくく、
いつまでもその色は褪せなかったことでしょう。
“酒はよく 百のうれいを祓い 菊はよく くずるる齢を制す”
中国の歌人・陶淵明の詩の一節から、
尊敬する師の長寿を願い送られた白絹の菊枕。
生きていく術を身につけていなかった彼女にとり、
俳句の世界はのめりこむほどに遠ざかる
悲しいものであったのかもしれません・・・。
2014年10月10日
日本の香り草枕
一日を無事に過ごしホッとお布団に身を横たえたときの安堵感は
何事にも変えがたいものですね。
そして、そのまますぐにスヤスヤと眠りにつけたならどんなに幸せなことでしょう。
良い眠りと爽やかな目覚めは、
古今東西を問わず人類の大きな願いのひとつでした。
人は眠ることで記憶の整理と身体の回復をおこなうといわれます。
睡眠に問題が生じると、だるさを感じるだけでなく
怒りやすくなるという統計までありますが、
人生の⅓を眠りの中で過ごすわけですから、
ぜひ植物の優しい香りを活用して質の良い睡眠をとりたいものですね。
イグサの芳香成分
人類は、古代より身近にある草花や樹木を利用して暮らしに役立ててきました。
畳を代表とする日本のイグサの文化は、
四季にくわえ梅雨もある日本の気候風土が生み出した
代表的な草文化と言えるでしょう。
動物のように自由に動きまわることのできない植物は、
フィトンチッドという強い殺菌作用をもつ物質を大気中に放出し
自らの身を守っています。
森に入ると癒される森林浴の爽やかな芳香は、
この作用によるものなのですね。
畳やゴザ・枕の材料として使われてきたイグサの香りはじつに心地良く、
畳変えしたお部屋に入ると
ゴロッと寝転がって深呼吸したい気持ちにさせられます。
このイグサの芳香成分は、
フィトンチッドが20%、
ジヒドアクチニジオリドという紅茶にふくまれる芳香と同じ成分が10%のほか、
リラックス効果を高めるαシペロンやバニリンなどによって構成されているのです。
また、イグサには有害物質を吸着し菌の増殖を抑える効果のほか
湿度を調整する力まであるといわれていますので、
身体を横たえたり頭を乗せる素材として最適のものと言えるでしょう。
日本最古の草枕
奈良時代 8世紀
正倉院御物「白練綾大枕(しろねりあやのおおまくら)」
この枕は、草を編んで筵(むしろ)状にしたものを箱形に固く整えて束ね、
上から白い綾織の絹を貼り付けたものです。
長さ68×幅36×高さ28.5センチという大きさから、
クッションのように脇に置き肘をついたり
身体をもたせかけたりして使われたのでしょう。
何の草で編まれたものかは解明されていませんが、
草枕の主な材料となるイグサ・ハス・マコモ・ガマ・ススキ・ヨシ・イネの
いずれかが使われているものと思われます。
また、中国ではその昔、薬となる大切な香草や琥珀(止血の薬)などを枕に詰め、
必要な時に取り出し使用したと伝えられますので、
そうした古代の薬草も一緒に詰められているかもしれませんね。
自然の植物で作られた 草枕は香りの効能だけでなく
頭をのせた時の柔らかさもじつに優しく
デトックス効果の高い素材として近年再認識されているのです。
2014年 9月12日
蓮の香り
泥の中に咲く神秘的な花 ”蓮”。
結実したその実の重さに頭をもたげ
種を水中へと落として生涯を閉じるこの花に
特別な想いを抱く方も多いことでしょう。
私自身も水面からスクッと頭を出し
ユックリと蕾を開かせる姿をながめる時、
まるで光が集められていくかのような眩しさを感じるのを不思議に思うのです。
その花は、早朝5時から6時にかけて少しずつ花びらを開き始めます。
主に雄蕊から放散されるという芳香は、
真夏の厳しい陽差しを浴びるにつれ
水面の蒸気と相まって甘い香りをあたり一面に漂わせるのでした。
開いては閉じるを3日ほど繰り返した花びらは、
やがて力を失うかのようにホロリを散りゆき、後には青い花托のみが残ります。
蜂巣の実の成熟とともに固くしわがれ
褐色へと変化していった花托は、
20日の後には生命の全てを子孫へと託し
頭をもたげ力尽きていくのでした。
「蓮の実のポプリ」には、
再生を願って終焉を迎えた様々な植物を取り合わせて
器に盛り付けましょう。
姿楽しい木の実たち・種を宿した草々や花のサヤさらに、
ツルや何だかわからないけれども面白いドライとなった植物も加えましょう。
皆それぞれに生をまっとうし枯れてもなを輝きをうしなってはいません。
香りには、強い香気の中にも魅力的な甘さを秘めた3種の香辛料に、
神聖な白檀と安息香・丁子の精油を加え、
水面のようにキラキラと輝く龍脳の結晶を加味して
天上の花にふさわしい高貴な香りにしあげます。
~蓮の実のポプリ~
香料
大茴香 2ヶ
丁子 小さじ半分
シナモン 2本
龍脳 小さじ半分
匂い菖蒲根 小さじ1
白檀オイル 3滴
丁子オイル 1滴
安息香オイル 2滴
匂い菖蒲根(刻みオリスルート)を小袋にとり、
3種の精油を垂らしてよく揉み込みます。
大きな密閉できるパックに蓮の花托や木の実をあわせ、
大茴香・丁子・シナモンをあらく砕き龍脳も加えましょう。
すべての材料をザックリ合わせましたら、
密閉し2~3週間熟成させてください。
やがて個々に主張していたの香りの角がとれ、
お互いが寄り添うように一つの完成された芳香へと仕上がります。
その香りは「素直な心のままに身を委ねられる香り」
と言ったら良いでしょうか。
奥深くそして気品あふれる芳香が部屋をそっと包み込みます。
熟成が完了しましたら
蓮の魅力をひきたてる器を選びキレイに盛り付けてみましょう。
このポプリは、蓮の花咲く盛夏ではなく
心静まる秋からから冬にかけて飾っていただく室礼となります。
私が選んだのは伊万里の焼き物です。
大中小とあるそれぞれの器には、
ゆったりと泳ぐ亀さんと水草・水紋が描かれていますが、
上野の不忍池の蓮池にたくさんの亀がいたのを思い出し
この器を選びました。
お料理のように中高にそして立体的にポプリを盛り付けます。
共にしつらえたお軸は、泉福寺「装飾華厳経切」(そうしょくけごんきょうきり)。
平安時代に写経されたものです。
平安時代、写経は本格的な書写に先立ち、
貴重な紙を漉き一巻の巻物に作ることから始まりました。
この泉福寺の華厳経は、
藍の染料で染めた紙の繊維を再びに溶き漉きあげた上に
金の揉み箔を散らした美しい料紙が使われています。
釈迦入滅後、
二千年を経過すると悟りを得る者は一人としていなくなるという末法思想は、
飢饉や疫病の続く平安人に不安をつのらせ、
末法の到来を予感させるものでした。
人々は阿弥陀如来に救いを求め、浄土信仰が盛んとなります。
そうして仏への帰依に基づいた写経は、盛んに行われる事となるのでした。
このお軸との出会いは、父が亡くなった時でした。
父の葬儀の時、古物を扱っている義兄がそっと飾ってくれたのです。
私の心が、現世を去り天へと召した父へと向かっていたからでしょうか。
連なる端正な文字を眺めていると、
何とも表現しがたい美しさに心が引き込まれます。
それ以後このお経が
私の心から離れることはありませんでした。
一年を経た頃、
父の供養にぜひ写経を飾りたいと思い立ち
義兄に相談したところ、このお軸を譲ってくれたのです。
それからこのお軸は、わたしの無二の宝物となりました。
蓮のポプリと共にしつらえると
香りとともに、目を伏せて静かに微笑む
頑固で一途だった父の面影が思い出されます・・・。
2014年9月6日
浄土の香り
『維摩経(ゆいまきょう)』というお経の中に、
香積如来(こうしゃくにょらい)が住まわれるという
「衆香国(しゅうこうこく)」のお話が記されていますのでご紹介しましょう。
その国は一切が香でつくられております。
楼閣はかぐわしい香木でできており、園にある植物は香樹香花に満ち、
食する香飯(こうぼん)の香りは世界の隅々にまで漂うほどで、
これを口にしたものは心身が安楽になり
全身から芳香を発するようになるといわれます。
香積如来は言葉による説法はおこなわず、
香樹の下でただ種々の香りを聞かせて天人たちを導きます。
菩薩たちは妙なる香りを嗅ぐことで仏の教えを理解し
「一切徳蔵三昧」の境地へと導かれるのです。
敦煌の壁画には、
神聖な蓮華の香りを振りまいて教えを説く香積菩薩の絵が描かれています。
衣がユッタリとたなびき大変優美なお姿ですね。
敦煌の壁画
「蓮香を振りまく香積菩薩」第61窟
「蓮・100の不思議」
蓮文化研究会著書/ 出帆新社より
神秘に満ちた香りには、
魂を震わせ心を正す力が秘められているのでしょうか。
古代エジプトの神殿でアラーの神に捧げられた薫香、
教会の大きく揺れる銀香炉より白く立ち昇る香煙、
そして仏前で僧侶の読経とともに焚かれる香と、
いにしえの時代より祈りの場では香りが重要な役割を担ってきました。
人々は香りに包まれることで
神聖な空間に結界をつくるようにその場を清浄へと導き、
おおいなる神と交信する手立てとしてきたのでしょう。
人知の及ばない天が生み出した妙なる芳香には、
言葉を尽くした説法にも勝る力が
宿っていることを改めて思うのでした・・・。
2014年9月6日
真夏の暑さも一段落し、涼しい風が吹くようになりましたね。
皆様、お元気にお過ごしでしょうか。
「蓮のポプリ」
厳しい日本の夏をしばし忘れさせてくれるかのように
大きな葉を揺らしながら気品漂わせ咲く”蓮の花”。
数ある植物のなかでも、
この花に特別な感情を抱かれる方も多いことでしょう。
私も多分に漏れずその一人なのですが、
香りを仕事としているものとして
「蓮のポプリ」を創作するのあたっては、かなりの思い入れがありました。
今回は、完成までに至る過程を三回にかけて
蓮のお話とともにお伝えしたいと思います。
どうぞ、ご覧下さい。
「源氏物語の蓮」
夏の蓮花の盛りの頃、
源氏の年の離れた正妻“女三の宮”の出家を祝って
持仏開眼の法要が盛大に執り行われることとなりました。
正妻とはいえ、
あまりに幼い“女三宮”に感心を寄せていなかった源氏の君ですが、
彼女の出家の決意を聞いたときにみせた狼狽と執着は
読むものを驚かせることでしょう。
失うと思うと急に惜しく感じてしまう、
人間のサガというものが良くあらわされているなと感じます。
源氏が彼女のために用意した仏具や持経は
目を見張るほど美しいものばかりで、
場面では馥郁と薫物の香りが漂います。
源氏物語「鈴虫」与謝野晶子訳
「・・・仏前の名香には
支那の百歩香(ひゃくぶこう)がたかれてある。
阿弥陀仏と脇士(きょうじ)の菩薩が
皆白檀で精巧な彫物に現されておいでになった。
閼伽(あか)の具はことに小さく作られてあって、
白玉と青玉で蓮の花の形にしたいくつかの小香炉には
蜂蜜の甘い香を退けた
荷葉香(かようこう)が燻(く)べられてある。
・・・薫物をけむいほど
女房たちがあおぎ散らしているそばへ院はお寄りになって、
空だきというものは
どこでたいているかわからないほうが感じのいいものだよ。
富士の山頂よりも
もっとひどく煙の立っているのなどはよろしくない・・・」
訳
「・・・仏前には支那の百歩香が焚かれています。
白檀で作られた神聖な阿弥陀仏と菩薩が飾られ、
貴重な玉を蓮の花形に彫刻した小さく可愛らしい香炉には、
夏の香り“荷葉”の練香が
蜜を控えて涼しげにその香りをたなびかせていました。
・・・また高価な薫物を煙いほどに焚きしめ女房たちが
あおぎ散らしている様子を見た源氏の君は
”空薫きはどこで焚かれているのだろうか
と思うほどに控えめなのが良いのですよ。
富士のお山よりも煙がたなびいては風情がありません”
と女房たちをいさめるのでした・・・」
香りに包まれた、おごそかな仏事の様子が目に浮かんできますね。
彼女は14歳であどけない少女のまま
父親のような源氏のもとに嫁ぎました。
が、やがて忍んできた“柏木(かしわぎ)”という青年との密通により
不義の子を身ごもってしまいます。
やがてその秘密は源氏の知るところとなり、
罪の重さに耐えかねた柏木の死や自らの苦悩から
男の子を出産した後に若くして出家の道を選ぶのでした。
こうして不幸にも不義の子を自分の子供として抱くことになった源氏の君ですが、
この事実はかつて己が犯した罪を再現するものだったのです。
源氏は若き頃、実父の后である“藤壺の君”に恋した末、
不義の子を産ませてしまいます。
彼の脳裏には、わが子と疑わず赤子を抱き上げ喜ぶ
父の顔が浮かんできたことでしょう。
罪の報いをこうしたかたちで現実に受け
彼の心は複雑に揺れ動くのでした・・・。
平安時代の末法思想
源氏物語に登場する女性たちは、
藤壺にはじまり
朧月夜・空蝉・六条御息所・女三宮・浮舟と
次々に出家の道を選びますが、
果たしてそれはどうしてでしょう?
平安時代はちょうど釈迦入滅後二千年にあたり、
悟りを得る者は一人としていなくなるという
”末法思想”が流布された時代でした。
さらに天変地異による飢饉や疫病が続いて起ったことも
平安人の不安をあおり末法の世の到来を予感させたのでしょう。
人々は阿弥陀如来に救いを求め
仏への帰依に基づいた出家への憧れが強くなっていったのです。
また、一夫多妻の男性主導の世の中で
たいへん弱い立場にあった女性たちの唯一の逃げ道が、
仏の道に身を投じることでした。
源氏物語の姫君たちは
出家することでようやく心の平安を得、
愛に翻弄されることなく
自らの人生を生きることができたのかもしれません。
女三宮の出家の様子を描いた「鈴虫の巻」は、
夏の盛りということで蓮池が描かれています。
蓮は仏教との関わりが深い神聖な花で、
仏は大海に咲いた蓮華の上に現れるとされました。
このおごそかな仏事に備えられた
「支那の百歩香」とは、
唐より伝わった薫衣香(くのえこう・衣に焚きしめる香)の優れた処方の名称で、
百歩先までその香りが感じられるほどの名香です。
また、愛らしい香炉には夏の香り「荷葉(かよう)」が焚かれています。
この香は基本となる練香「六種の薫物(むくさのたきもの)」のひとつで、
夏に葉を広げる蓮葉の印象をとらえ
甘さを控えて涼しげに調合されました。
盛夏に執り行われた女三宮の開眼供養
という場面を彩るにふさわしい香りといえるでしょう。
『六種の薫物』
春「梅香」・・・梅の花になぞられた華やかな匂い
夏「荷葉」・・・蓮の花になぞられた涼しい匂い
秋「菊花」・・・菊の花に似た匂い
冬「落葉」・・・木の葉の散る頃のあわれの匂い
その他に季節を問わないもう2種の処方があります。
「黒方」・・・身にしみわたる香り
「侍従」・・・秋風が吹くようにもののあわれを感じさせる香り
「源氏物語」の文中に登場する六種の薫物のそれぞれの香りは、
季節やその時々の人々の心情をみごとに反映し、
場面場面の臨場感を引き立てているのです・・・。