2018年3月12日
幼いころの記憶のひとつに、
砂浜にてんてんと散らばる貝殻を
ひろいあつめた思い出があるかもしれません。
それぞれの貝のかたちや色合いには
不思議なおもむきがあり、
未知の世界へと誘うものでした。
平安時代、
宮廷貴族のあいだで流行したあそびのひとつに
「ものあわせ」というものがあります。
絵合わせ、花合わせ、扇あわせそして紅葉あわせなど
題材はさまざまに、
持ち寄ったものにちなんだ和歌をそえて
その優劣を競うというものでした。
貝合わせも、
当初は和歌とともに貝の大きさや美しさ種類の豊富さ
などを競いましたが、
しだいに対となるハマグリを探すあそびへと発展していきます。
お姫様の婚礼調度品には、
夫婦の幸せを願って
豪華な装飾がほどこされた一対の貝桶が用意されました。
『貝合わせ』の遊び方
最初に二枚貝をはずし“地貝”と“出し貝”に分けておきます。
(二枚貝の頂を上にして合わせ、耳の短い方を自分の方に向けて両手に持ちます。
その時、右手にある貝は出し貝、左手にある貝を地貝といいます。
12個並べハマグリ貝、サスケさんも貝遊びに参加です。)
地貝を12個(天文学より12カ月に由来)をグルッと丸く並べ、
その外側には19個(7曜日を加えた数)を並べ、
さらに3周目4周目と計360個(1年の日数)の地貝を9列に並べます。
次に出し貝を一つ取り出して中央に置き、
その貝の形や大きさ・模様を見比べて対となる地貝を探し出します。
双方の貝を合わせピタッと合わさりましたら絵柄を公開し、
開いて伏せ自分の膝前におさめその数を競います。
このようにして対となる貝殻を探し当てるお遊びが貝合わせで
正式には「貝覆い(かいおおい」)と呼ばれましたが後に総称されます。
ちょうど女性の手の平におさまり
絵柄も描きやすいハマグリは、
伊勢二見産のものが最良とされました。
「伊勢桑名の焼蛤」という名言が残っているよううに
三重県伊勢の蛤はたいへん上質で将軍家にも献上されていました。
三年物で4~5㎝、七年物で6センチほどに成長するといわれる蛤ですが
七年物10粒で8000円という高級食材である蛤はたいへん高価なので
最近では中国産のものも出回っていますが、
貝合わせに用いる蛤はやはり国産のものが最良といわれています。
『潮干のつと』(喜多川歌麿、1790年)に出てくる貝合わせ図
貝合わせの絵柄には、
源氏物語や伊勢物語などの場面を描いたものや
美しい風景、植物、和歌など様々なものがあり、
貝の内側に和紙を貼り胡粉で下塗りをした上に
金箔や極彩色で仕上げられました。
今回は趣深い古典植物の花々の図柄を写しとり、
金彩をほどこされたハマグリに装飾していきましょう。
自作の植物画シールです。
(材料)
金彩ハマグリ 二対
古典植物文様シール 2種類を各二枚
脱脂液・ニス
その他、小回りの効く小ハサミ・カッター・キッチンペーパー等
(作り方)
①金彩ハマグリの内側の油分を取りのぞいておきましょう。
脱脂液をつけたキッチンペーパーできれいにふきとります。
②植物文様を丁寧に切り抜きます。
模様の1ミリ外側のラインをカット、ハサミが届かない部分はカッターで切り取ります。
③貝の内側に当てレイアウトを決めます。
シールの紙をはがし手の油がつかないよう端から空気を押し出すように貼っていきます。
④シールをしっかり密着させ、はみ出した部分を切り取ります。(貝の丸みの内側ライン)
⑤最後にニスで仕上げ、完全に乾かしましたら完成です。
今回は「朝顔」と「しゃくなげ」の2点を作製しました。
江戸時代の古典植物画には
何ともいえないレトロな雰囲気が漂います。
2018年2月
舞い散る桜の香り花びら
日本の春の訪れは、
人々に季節の移り変わりを最も印象深く感じさせる時といえるでしょう。
窓辺を照らす光の明るさ、
柔らかい新芽をのぞかせる樹々の梢、
地面に寄り添うように花開く早春花、
何もかもが冬の眠りから目覚め静かにうごき初めます。
そんな春の喜びを桜の花びらに託して飾りましょう。
白い粘土に桜の香りを練りこんで
可憐な香り花びらをつくります。
白い桜も気品あふれ素敵ですが、
赤を少し加えると優しい桜色なるでしょう。
西行法師の愛した吉野の舞い散る桜のように、
ヒラヒラと塗り盆やたたらの器などに飾りましょう。
また和紙に包んでプレゼントしたりお手紙に忍ばせても素敵ですね。
桜の樹の下に立つとつつまれる、
桜独特の“クマリン”のなんとも優しく穏やかな香りが漂います。
材料 石粉粘土 適宜
桜のオイル 1滴
染料(赤) お好みで1~2滴
その他 アクリル板の桜型・ワックスペーパー・麺棒・型切りなど
作り方
①香りのついた桜の花びらを作るには、最初にお好みの桜の花びら型をアクリル板で切り抜いておきます。
②粘土を少し取り桜のオイルを練り込みましょう。
③さらに染料を直接垂らして粘土の内側に練りこむようにして色付けし、
ほどよい混ざり具合でストップしてください。
④麺棒で薄くのばし桜型を当てて切りとします。
⑤丁寧にはがして手に取り、
花ビラの芯の部分を摘みさらに全体を優しくよじるようにひねって形を整え乾燥させましょう。
※作業はワックスペーパーのうえで行うと、はがす時に綺麗にはがせ作業がしやすいでしょう。
花ビラに少しひねりを加えておくと優美な感じに仕上がります。
また、粘土は薄く成型するほどに繊細な花びらになりますので、ぜひとも挑戦してみてください。
可愛らしいピンクの桜・大人っぽい白い桜・妖艶な薄墨桜、あなたはどの様な桜がお好きでしょうか・・・。
桜のお酒
桜茶に使われる桜の塩漬けを用いて、
春の日の祝い酒をつくりましょう。
枝先の桜が風に吹かれユラユラとなびくかのような花びら酒、
口に含むとほんのりと香りたち
心まで桜色に染めてくれかのようですね。
桜ゼリー・桜ジンジャエールなども美味ですが、
私のおすすめはシンプルなお湯割りです。
まだまだ寒い季節、熱いお湯を注いだ香り高い桜酒で、
やさしく身体を温めてください。
後世にいたり
“松尾芭蕉”を漂白の旅へといざなったのも
西行法師のそうした生涯でした。
俳句の師にあまんじている己に危惧感をつのらせた松尾芭蕉は、
自らの内面を尊敬する西行のような高みにまで引き上げることを祈願し
1684年、大和から吉野・尾張へと旅立ちます。
秋の日、吉野山へとたどりついた芭蕉の脳裏には、
花の姿は見えずとも香りほのかに柔らかく
そして静かに咲きほこる桜の花が浮かび上がってきたことでしょう。
西行の草庵を見詰め
残光のように漂う偉人の気配を感じながら、
生涯を旅と歌に捧げた西行に対する憧憬をつのらせたのかもしれません。
松尾芭蕉像(葛飾北斎画)
この旅で「野ざらし紀行」を記した芭蕉は
その後、西行没後500年を機に
1689年、東北から北陸をめぐる巡礼の旅へ旅立ちます。
人生50年といわれた江戸時代、
40代後半を迎え病気がちだったにもかかわらず
住まいであった芭蕉庵を売り払っていどんだ俳諧の旅は、
じつに多くの名句を生み出し「奥の細道」として編纂されました。
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の後」岩手県平泉
「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」山形県立石寺
「五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川」山形県大石田町
『荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」新潟県出雲崎
『奥の細道』より
その後も旅への執着衰えることはなく挑み続けた芭蕉でしたが、
次第に病に伏すことが多くなり
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
の句を最後に1694年静かに息を引きとるのでした。
2018年2月
奈良県吉野山
4月初旬から末にかけ下千本から奥千本へと山桜が開花してゆく
春の日を淡くいろどる桜の花は、
見るものの心をなごませ
この国に生まれた幸せを感じさせてくれる存在といえるでしょう。
日本の野山には、もともと野生種である山桜が自生していました。
桜の名所といわれる奈良県吉野山には、
平安時代の歌人“西行法師”がむすんだ小さな庵があります。
吉野山はその昔、
“役小角(えんのおづぬ)”が桜の樹に蔵王権現をきざんだことにより、
桜がご神木としてあがめられるようになりました。
その後、修験道の聖地となった吉野には桜の苗木をたずさえて参詣する人が多くなり、
現在のような麗しい景色へと移り変わっていったのです。
役小角(えんのおづぬ) 飛鳥時代の呪術者・山伏の元祖
平安時代末の乱世に生まれ、
生きることに無常観をつのらせていった西行法師は
23歳の若さで出家の道を選びます。
そしてどの宗派にも属さず、
山里の庵にひとり住み孤独の中で心の安らぎを求めるのでした。
吉野山最奥にある金峰神社近くの小さな西行庵
春になると山々を優しく染める山桜は
西行にとってただ美しいだけのものではありませんでした。
咲き誇りそしてハラハラと散りゆくその姿に、
みずからの心情を託しじつに多くの歌を詠んだのです。
「花に染む 心のいかで のこりけむ
捨て果ててきと 思ふわが身に」
“現世での執着を捨て去ったと思うわが身なのに
なぜこれほどまでに桜の花に心を奪われるのでしょうか”
「ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば
散る別れこそ 悲しかりけれ」
“ずっと眺めていたからでしょうか。情がうつってしまったようです。
散りゆく桜の姿が悲しくてなりません”
決まり事にとらわれず
自分の弱さや戸惑う心を素直に詠んだ西行法師の和歌のかたちは、
俗語を用いてもなお気品をそこなわず独特の抒情感を生みだし
当時の歌壇中心人物らに大きな影響をあたえることになります。
鞍馬、高野山、伊勢など心のおもむくまま諸国を巡った西行は、
1190年2月16日73歳でこの世を去りましたが、
終焉の地もやはり修験道の開祖といわれる役小角が開いた大阪河内の弘川寺でした。
空海そして行基も修行したといわれるこの寺の裏山にむすんだ小さな庵で、病に伏し亡くなるのです。
~和歌を一首詠むのは、仏像を一体彫るのと同義~
と語ったことからわかるように、
歌作りは仏道修行の一環でもあったのでしょう。
また、西行は没する数十年前にこのような和歌を残していました。
「願はくは 花に下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ」
“願いが叶うものならば満開の桜の下で死にたいものです。
お釈迦様が入滅されたという如月の望月の頃に(2月15日)”
その願いどおり2月16日の桜の盛りに終焉を迎えたことで、
西行の生きざまは人々にさらなる感動を与えることになります。
誰にも邪魔されず心ゆくまでながめた桜の姿は、
人生の様々な場面と重なって見えたことでしょう。
これより桜は植物という枠を超え、
日本人の死生観にまで入りこむ特別な存在となっていくのです。
2017年11月17日
11月も半ばを過ぎ、
今年もあとひと月ばかりとなりました。
12月にはいると何かと慌ただしく感じられることでしょう。
新年に欠かせない植物「松」。
日本人がこの植物に特別の思いを抱くのは
何故なのか探ってみることにしましょう。
松迎えの風習
新しい年の幕開けは実にすがすがしく、
誰もが心新たな気持ちになることでしょう。
町を歩けば綺麗に清められた家々の玄関に常盤木の松が飾られ、
今年一年の豊作と家族の幸せを願う気持ちが伝わってきます。
慶事に欠かせない植物『松竹梅』の柱といえる松は、
強く清涼なる芳香とともに
凛として気高いオーラを発する特別な植物といえるでしょう。
『歳寒三友』図 13世紀中国
歳寒三友(さいかんのさんゆう)
「歳寒三友」であらわされる松竹梅とは、
宋代の文人に好まれた画題のひとつで、
厳しい状況でも節度を守り清廉潔白に
そして豊かに生きるという文人の理想を現しています。
極寒にも色あせない松、
しなやかにしなる竹、
百花にさきがけ寒中に蕾ほころぶ梅の花。
松竹梅という植物に託された「歳寒三友」とは、
孔子の「論語」にある教えから生まれました。
~益者三友・損者三友~
・・・ためになる友には三通り、ためにならない友にも三通りある・・・
自分がどう思われようとも直言をしてくれる友、
心に誠がある友、
物事を深く知っている友、
これらの友人は自分を成長させてくれる人物である故
さらに親交をあたためると良いであろう。
反対に人に良く思われることを第一とする友、
人当たりは良いが本心ではない友、
口だけ達者で美辞麗句を述べるだけの友、
これらの友人は自分のためにならず・・・
厳しい状況の時にこそ大切にすべき友の姿を説いた「歳寒三友」の思想は、
平安時代に日本へと伝わり
江戸期には民衆にまで広く浸透していきました。
やがて教えをあらわす植物として描かれた松竹梅は、
めでたさの象徴となり
正月や婚礼などの慶事になくてはならないものとして
絵画・染め物・楽曲など多くの分野に取り入れられていくことになります。
松迎えの風習
正月に飾る松を山に取りに行く行事を
「松迎え」といいます。
その昔は12月13日におこなわれ、
この日ばかりは神聖な山に入って樹を切ることが許されていました。
新年に訪れるという歳神様は、
一年の豊作と家族の幸せをもたらしてくださる
ありがたい神様です。
その歳神様の降臨する依代として飾られるのようになったのが門松で、
家の戸口に松を飾るという行いの歴史は古く、
平安時代末にはすでに始まり
鎌倉時代になると松と竹をあわせた
立派な門松が作られるようになっていきす。
松という名称は
「祀る」・「神々が降りてくるのを待つ」を
語源とするという説がありますが、
その威風堂々とした風格あふれる存在感は
他の植物にはない特別なものといえるでしょう。
仏教が伝来する以前から日本人は、
自然の中に神は存在すると信じてきました。
四季豊かな日本列島に育まれた自然は、
私たちに大きな恵みをもたらしてくれます。
が、時として激しく荒れ狂い
恐ろしい厄災を引き起こすことも少なくありません。
故に古代人が何か事あるたびに、
その力の偉大さを感じそこに神の姿を見出したのも理解できることでしょう。
本来、神とは姿をもたず又、
ひとところに定着するものではないと考えられてきました。
天より降臨した神霊は、
鎮座する巨岩や樹齢を重ねた樹木など
様々な物体である依代を媒体として宿るのです。
老松の風格溢れる幹肌、
グッと力強く伸びる枝振り、
冬でも枯れず青々とした葉を茂らす生命力は、
じつに神秘的であり時に霊的であるとも感じられたことでしょう。
こうして”松”は
植物の中でも特別な存在として神聖視されてきたのです。
【影向の松(ようごうのまつ)】
奈良県春日大社の一の鳥居をくぐった右参道脇に、
枯死した黒松の切り株が祀られています。
この松こそ藤原氏の氏神である春日大明神が
翁に姿を変え降臨したと伝えられる「影向の松」なのです。
春日大明神の霊験が記された『春日権現霊験記』1309年には、
翁に姿を変えた神が
「万歳楽(まんざいらく)」を舞ったと記されています。
この「万歳楽」とは
唐の時代の賢王が国を治めるとき、
どこからともなく鳳凰が飛来し
「賢王万歳」とさえずった、
という逸話から創作された舞で、
才知と徳をあわせもつ立派な君主を称えるおめでたい楽曲として、
現在でも即位大礼の儀などの折に
鳥兜をかぶった演者により奉納されるで舞楽です。
桧で作られる能舞台正面の鏡板に、
立派な老松が描かれているのをご存知のことでしょう。
この松は春日の「影向の松」をあらわしています。
もともと能は
野外の大木のもとで行われるものでした。
が、時代とともに舞台は室内へと取り込まれ現代の様式へと完成されていきました。
能舞台の鏡板に松を描いた最初の人物は豊臣秀吉だったと伝えれます。
大変能が好きだった秀吉は、
隠居城として築いた桃山城の能舞台に
影向の松を描いて自ら舞い
そしてこの城で波乱万丈の最期を遂げるのです。
亡霊や生霊が登場し
「この世とあの世を行き来する芸能」
ともいわれる能は、
神の依代となった老松のもとで演じることで、
神秘的な大自然に抱かれ生きる
小さな人間に思いを馳せる、
日本独特の文化といえるでしょう。