♥♥2015年10月12日
なんてきれいなんでしょう。
ドイツ製のこれらのビー玉を目にしたとき
ぜひ身近において香りとともに楽しみたいな
と思った次第です。
大きな35ミリの玉は作るのには技術が必要とのこと。
光に透かして見るとレンズの作用ですべてが上下さかさまに見えるのです。
それこそ、アリスのように不思議な世界へと迷い込んだかに感じることでしょう。
お花や渦巻きを閉じ込めたビー玉もしかり、
ぜひお手元に置いてフルーツの爽やかな芳香とともに
楽しんでくださいね。
幼い日、
オレンジやブルーに輝くガラスのビー玉を缶に集め、
ガラガラと振ったり
取り出して眺めた思い出をもつ方も
多いのではないでしょうか。
光に透かしてジット眺めると、
何故か透明なそのガラス玉の中へと
吸い込まれていくように感じたものです。
大人になった今でも
変わらないその感覚を、
香りとともにプチボオルの中へと閉じ込めましょう。
ドイツのガラス工房から輸入されたビー玉は
何とも美しく子供だった時の純粋な心を思い出させます。
リビングテーブル・キッチン・洗面台・トイレ・ペット回りなど
お好きなところに置いておきましょう。
眺めたりコロコロしたりその姿と香りを楽しんでください。
材料 アメリ・プチボオル(アンティック仕上げ)
ドイツガラス工房のビー玉 (35ミリ)
〃 フラワー玉( 25ミリ)
〃 サイクロン玉(25ミリ)
ヴァイオレットビー玉(15ミリ) 12ケ
白木玉(8ミリ) 20ケ
シナモンスティック 1本
八角 1ケ
エッセンシャルオイルブレンド 計20滴
※オイルは数種合わせることでより豊かに香ります。
白木玉にしっかりと馴染ませ一晩おいて盛り付けましょう。
フルーツミックスブレンド
レモン・・5滴 オレンジ・・5滴
ベルガモット・・3滴 ミント・・3滴
クローブ・・・2滴 ムスク・・2滴
トンボ玉のお話し
トロンとした輝きを放つ硝子の“トンボ玉。
手の平を閉じればすっぽりとおさまってしまうほどの小さな玉に、
人をひきつけて止まない
不思議なパワーが宿っているのはどうしてでしょう。
今回は多くの権力者を魅了し、
時として通貨の役割も果たしてきたトンボ玉の誕生から
日本への道筋をたどってみることに
しましょう。
トンボ玉
「ガラスを用いて様々な文様をほどこし
紐を通す穴が開いている玉をトンボ玉と称します。」
そもそも黒曜石など天然が生み出したガラスは、
火山の噴火活動による高温によってつくられたもので
石器時代には動物を射る矢じりなどに利用されてきました。
人の手によるガラスの誕生は、
治金など高温での作業過程のなかで
偶然に生まれた産物だったのでしょう。
当初、秘伝とされたその製法は、
エジプト・メソポタミア文明のなかで発展を重ね
紀元前16世紀ころには
美しいトンボ玉が誕生することになります。
技術の発展とともにトンボ玉の単純だった意匠も
次第に複雑となり、
モザイク玉や人の顔を閉じ込めた人面玉など、
各国で特徴ある魅力的なトンボ玉が製作されるようになっていきます。
独特の輝きを放つガラスの玉は、
所有してということが人々の憧れの対象でした。
そして高価な金や銀・宝石にも勝る価値を生み出し、
交易ルートの発展とともに重要な交換品として
世界の隅々にまで運ばれていくことになるのです。
日本最古のトンボ玉
奈良新沢千塚古墳(AD.5世紀) 緑地に黄色の縞目模様
金箔サンドウィッチ
シルクロードの終着点といわれる日本にも、
トンボ玉は伝わってきました。
これら日本最古といわれる玉は、
そのデザインから
アレキサンドリアを中心とする地中海東や南岸地域でしかない技法
で作られていることまた、
朝鮮の新羅古墳の出土品と類似点が多いことが判っています。
ガラス研究の権威である由水常雄先生は、
「これらは地中海で作られ、
黒海さらに南ロシアを経てシルクロードのステップルート(地上ルート)を通じ、
朝鮮半島の新羅に渡り
日本へともたらされたものでしょう。」
と推測しています。
正倉院玉
8世紀当時の貴重な品々が保存されている奈良正倉院には、
実に24万個もの大量の玉が保存されています。
御物にはその製法を記した書物や原料も収蔵されていることから、
奈良時代すでに国内で生産されていたと考えられています。
他国にあまり例のない”ねじり玉“
露の形をした”露玉“
さらに仏像の飾りや仏殿内部の装飾に多く使われた
”平玉“”小丸玉“などがあります。
仏典に記述されている「瑠璃を敷く」とは、
仏像を安置する須弥壇の下に
ガラスの玉を敷き詰めることで、
記述どおりに大量の平玉が奈良興福寺の金堂跡より発見されました。
魔の七彩玉
一時期、生産されなくなり影を潜めていたトンボ玉ですが、
近世にはいりリヴァイバルの時期を迎えます。
17世紀、命知らずの冒険家により様々な交易ルートが確立されたことで、
ヨーロッパの人々は美しいトンボ玉を通貨として用い
宝石やスパイスなどを買い求めました。
特にガラス産業を独占していたものの衰退の一途をたどっていたイタリアは、
17から19世紀にかけて
アフリカとの貿易に乗り出します。
美しい色彩を駆使し怪しい輝きを放つイタリア産のヴエネチア玉は、
アフリカの原住民の魂を捕られて放さず
ダイヤモンドやエメラルド
トラやライオンなどの動物の毛皮
極楽鳥の羽根、
さらには悲劇的な人身売買もおこなわれ
奴隷となった人々はアメリカ大陸へと連れて行かれるのでした。
こうして華麗な七彩のモザイクガラスは、
その背景から
“魔の七彩玉”と称せられることになっていくのです。
1センチほどの小さな玉をジッと見つめていると、
不思議な感覚にとらわれるのは何故でしょう。
特長あるそれぞれのトンボ玉のデザインには、
たどってきた民族の喜び
そして悲しみの歴史が刻まれているからかもしれません・・・。
2015年 7月11日
月桃(サンニン)
ベランダで種から育てた月桃。
2年後には可愛らしいお花をつけました。
50種余りあるといわれる
沖縄の香料植物の代表ともいえるのが
月桃でしょう。
ショウガ科の常緑多年草で、
5月から7月にかけて房状にたれさがる
白いお花を咲かせます。
私は、以前いただいた種を
ベランダに植えたことがあります。
ソバの実のような小さな種は、
やがて芽をだしグングンと力強く成長していきました。
東京の冬の寒さもなんのその
背丈ほどの高さになった月桃は、
初夏になんとも美しい純白の花を咲かせたのです。
その姿が
桃の実に似ているところから
月桃という名前が付けらたという由来にあるように、
蘭のように連なった花々は
ほんのりと愛らしいピンクをのぞかせ
微笑むのでした。
石垣島から届いた太陽のエネルギーあふれる月桃の葉と種
月桃の茎を利用した“月桃紙”や
お餅を葉でつつんで蒸し上げた菓子”ムーチー“
などは大変有名ですが、
沖縄のいたるところに自生する月桃は、
防腐や抗菌効果など薬効が高く
暑さ厳しい南国に住む人々の生活に
なくてはならないハーブとして活用されてきた歴史があります。
月桃のユーカリやハッカのような爽やかな芳香は、
ヒノキなどとともに日本の代表的な和精油のひとつですが、
100kの葉から30ccしか精油を採取できないため
薔薇やネロリと同様に
高価なエッセンシャルオイルといえます。
ムーチー(鬼餅)・・・餅粉をこねて黒糖などで味付けをし、
月桃の葉でくるんで蒸す沖縄の代表的なお菓子。
神饌としたり健康長寿の縁起物として食します。
月桃ポリフェノール・・・月桃に含まれるポリフェノールは、
赤ワインの34倍もあり近年注目されています。
ポリフェノールには
動脈硬化や心筋梗塞をふせぐ抗酸化作用があり、
老化防止・ガンの抑制にも効果があるでしょう。
また月桃には、
脂肪の分解を促すリノール酸や
コラーゲン分解酵素を抑制する成分も含むため、
日焼けやシミ・美白効果など
皮膚のトラブルを解消する
スキンケアの分野にも利用されています。
今回は、南国の太陽あふれる
石垣島の農園から無農薬の月桃
を取り寄せました。
その利用法は様々にありますが、
沖縄の人々が暮らしのなかで生み出してきた
手軽にできる方法をご紹介しましょう。
月桃の葉を2センチほどにカット
1リットルほどのお水で10分ほど煮立てた月桃茶
毎朝つくって健康茶として愛飲しています。
一部はお風呂上がりの美肌水として
また残ったときは虫よけとしてベランダにまくなどして
一日で使い切っています。
~健康自然食“ムーチー”を作ってみよう~
黒糖ムーチー もち粉 200g 砂糖 50g 塩 少々
黒糖(粉末)60g 水 約130cc
材料をすべて合わせ良く練って耳たぶぐらいの柔らかさにします。
月桃の葉を洗い水気をふいておきましょう。
お餅を載せるところにサラダ油を塗り
丸めて小判型にした餅を包んで紐で結び、
蒸し器(弱火から中火)で30分ほど蒸しあげ完成です。
最後に、石垣島の月桃を手にして思ったことをお伝えしたいと思います。
今回私が取り寄せたのは「アキママ月桃農園」
という横浜から移住され農園を営んでいるご夫妻のものでした。
宅配便で届いた月桃の葉の
柔らかい香りはなんて心地良いのでしょう。
お茶にしても肌につけても
じつに抵抗感なくスーと身体へなじんでいきます。
傷んだ身体を癒す植物は、
生まれた地域にあるといわれますが、
まさにその説とはこうゆうことだったのかと
実感するのでした。
お子さんのアトピーに悩まれた横浜在住の若いご夫妻が
沖縄の豊かな自然に感動し移住されて営む
石垣島の月桃園。
そこで丹念にそして正直に作られた
無農薬月桃の蒸留水や石鹸は
様々な肌のトラブルに悩める人々を救っているのです。
どうぞ皆様、本物の月桃の素晴らしさを
ぜひ体感してみてください・・・
2015年7月10日
日本列島は四方を海で囲まれた島国で、
4つの大きな大陸と3700もの島々で構成されています。
春夏秋冬の四季がはっきりとした山河豊かなこの列島は、
縦に細長いため南北で気候が大きく異なります。
亜寒帯気候の北海道、
温帯の本州
そして亜熱帯気候の沖縄まで、
小さい国土ながらも地域ごとに多彩な自然環境を有しているといえるでしょう。
今回は、小さな島々が連なった南国・沖縄諸島に育まれる
香りある植物を観察してみることにしましょう。
沖縄の香料植物
ヤマクニブー(もろこし草)
一年に一度、
梅雨明けの知らせとともに刈り取りが行われる
沖縄独特の香り草。
ヤマクニブーとは方言名で、
ヤマは“山”クニブー“九年母”はミカンをさし、
ミカンのような花と実が付くことから名付けられました。
その昔、
琉球王国の女官らが防虫のために衣装箱におさめた
といわれる歴史ある植物で、
刈り取ったのちに蒸して乾燥した束を
家のいたるところに吊るし虫よけにも利用されました。
柑橘系にカレーにも似たスパイシーな心地よい芳香をもっています。
香料にある零陵香は、
もろこし草の近縁種といわれます。
伊集の花(いじゅのはな)
奄美諸島に分布する
ツバキ科の常緑高木で、
5~6月の沖縄の梅雨のころいっせいに
ツバキに似た清楚な白い花を咲かせます。
その香りはジャスミンとイランイランを合わせたような甘い芳香で、
華やかな中にも気品を感じさせる香りです。
「イジュの木の花や あんきよら咲きゆり
我もイジュやとて 真白咲かな」 辺野喜節(びぬちぶし)
“イジュの花が清らかに咲いております。
私もあの花のように美しく真白い花を咲かせたい・・・“
琉球王の愛を一身に集める女性を
ソッと見つめる王妃が、
私もイジュの花のように美しく生まれたならば、
と悲しい心情を詠んだもの。
降りしきる雨の中、
甘い香りをあたり一面に放ちながら咲く白き花は、
沖縄の清楚な女性の美しさの象徴といわれます。
イジュの花の「ひたむきな愛」
という花言葉にふさわしい
逸話をまとった琉歌といえるでしょう。
室町時代 ~立花(たてはな)~
平安貴族が西方浄土に憧れて造らせた「仏間」は、
室町から桃山時代にかけて
「書院造りの床の間」へと変化していきました。
そしてこの神聖な場所には、
格の高い花が生けられるようになります。
‶立花″とは
”花をたてる“と書くように、
天へとまっすぐに垂直に伸びるシン(真・心)の花がすえられ、
神の宿る床の間を飾るにふさわしい「正統派の花の姿」といえるでしょう。
花入れには品格ある胡銅や青磁の器がもちいられ、
無限なる宇宙を感じさせる空間が成立します。
1380年6月9日
この日、二条良基邸にて
記録にのこる日本始めての「花会」が催されました。
この会は、花の名手とされる公卿と数名の僧侶を加えた24名が
12人ずつに分かれて花を生け、
その優劣を競うというものでした。
このように花を立てるという新しい芸術が注目されていく中、
仏事に花を楽しむという
「七夕法楽の花会(たなばたほうらくのはなかい)」が、
公家将軍家において
盛んに開催されるようになっていきます。
そして次第に、
一年をとおして時節の花を殿中に飾るということが
恒例となっていくのでした。
将軍家の所蔵する唐物を管理し花を生けるのは、
京都の六角堂頂法寺の僧である池坊専慶(いけのぼうせんけい)
や文阿弥(もんあみ)など花の名手たちに任されました。
こうして、
さらに進化していく桃山文化の華麗な建築に合わせるかのように、
「立花」の様式は堂々とした装飾性を強めていきます。
「花を生ける」という文化は、
中国における文人のたしなみであった挿花と、
宗教的意味合いのある供え花を基とし、
日本人の精神的な美意識を表す場を得たことで発展し、
権力者の庇護のもと、
この室町の時代に根を下ろしたといえるでしょう。
平安時代 ~王朝人の花~
「 勾欄(こうらん)のもとに あおき瓶(かめ)のおほきなるをすえて
桜のいみじうおもしろき枝の 五尺ばかりなるを、
いと多くさしたれば、 勾欄の外まで 咲きこぼれたる 」
「枕草子」清少納言
王朝文化が隆盛した平安時代、
まだ日本には室内に花を生けるという習慣があまりありませんでした。
季節に咲き競う花々は身近のいたるところあり、
あえて飾る必要がなかったのかもしれません。
季節の移り変わりの風情を楽しんだ人々は、
野に出て山の風に当たり、
揺れる草花を眺め・触れ・摘んでは
歌を詠む題材としました。
そしてこの頃より、
植物が暮らしの内部へと取り込まれていきます。
「前栽(せんざい)」とは、
庭先に四季の草花を植えることですが、
このような仕立てが風流人の間で流行していきました。
上記「枕草子」二十三段の一節は、
日本人が暮らしの中で
始めて花を生けた記述といわれています。
あらゆるものを観察の対象とした清少納言ですが、
花に対する思いはことのほか深かったことでしょう。
“室内から張り出した欄干に
大きな青磁の壺を置き、
1.5メートルもある桜の大枝を
こぼれるようにさした様は、
なんとも好ましいものである”
と、桜の花の華やかさを
部屋の外に広がる風景とともに眺め、
良きものなりと語っています。
五節供
中国との交流が盛んになるにつれ、
多くの唐風文化を吸収してきた日本ですが、
平安時代にはいると
「五節句」の行事が宮中で盛んに行われるようになっていきます。
一月七日(人日・じんじつ)
野に出て七種の菜を摘み、羹(あつもの・吸い物)にして食し、
年中の邪気をはらう儀式
三月三日(上巳・じょうし)
災いをもたらす悪気をはらうため、
水に人形(ひとかた)を流したり、
邪気をはらうとされる
桃の枝を瓶に挿すなどして飾ります
五月五日(端午・たんご)
宮中でおこなわれる儀式にあたり、
参列する貴族は菖蒲を鬘に挿して出向き、
朝廷より菖蒲の薬玉を賜ります
薬玉とは、
邪気を祓うために作られるお飾りで、
蓬の葉を菖蒲で丸く包み、
秋の菊の節供まで寝台の柱に吊り下げておきます
七月七日(七夕・しちえ)
牽牛星が天の川を渡り一年に一度、
織姫星に会うという中国の伝説が、
日本の棚織り姫の信仰と交じり合いできた星祭り
夜空を眺めて梶の葉に歌をよんだり、
庭に並べた棚にお供えをし、
五色の糸を張るなどして、
機織や手芸の上達を祈ります
九月九日(重陽・ちょうよう)
九という陽の数字が二つ並ぶおめでたい日
今を盛りとして咲き競う菊花を飾り、
花びらを浮かべた菊酒を飲み、
綿を被せて一晩置いた菊の露で肌をぬぐう
などして長寿を祈ります。
奈良時代にもたらされた菊の花は、
中国では梅・竹・蘭と共に四君子として敬われていました
挿花(かざし)
頭髪または冠にさした花枝を“挿花”といいます。
“野に咲く季節の花を身につける”
というこの美しい行為は、
はるか古代から行われてきました。
宮中では奈良時代から冠に生花を挿していましたが、
次第に布や金属でできた造花も用いられるようになっていきます。
那智の滝で有名な和歌山県「熊野速玉大社」には、
14種30枝の挿頭華(国宝)
が伝えられており、
それらはツツジや松・椰をかたどりつくられています。
この挿花が、後世の「かんざし飾り」へと繋がっていくのですね。
「 ももしきの 大宮人は いとまあれや
桜さざして 今日も暮しつ 」
「新古今和歌集」 山部赤人