日本の香りと室礼

目次

その五「身にまとう」

「正倉院の小香袋」

「正倉院の小香袋」『正倉院御物図録』より
正倉院の小香袋」『正倉院御物図録』より
「蘇芳(すおう)羅(ら)を四枚ぬい合わせて福豆形に作り、背を雑色の組緒で飾り、同色の口緒をつける 1.8×2.6センチ

正倉院には、福豆形の小さな香袋が七つ残されています。
愛らしい形と1.8☓2.6センチという大きさから、
中国唐の時代に流行し、帯に吊るしたり懐中などした香袋と
同じものではないかと推測されています。

蘇芳とは黒味を帯びた赤に染まる染料、羅とは薄く織られた絹をさします。
八世紀当時の香袋は現在の中国には存在しておらず、
この正倉院に残された小香袋が世界最古のものと思われ、
あらためて、こうした貴重な文物が保存されてきた奇跡に感謝の気持ちがつのります。

~楊貴妃の愛した香袋~

長安を都とする中国・唐の時代に
華やかなロマンスとして伝えられる玄宗皇帝と楊貴妃の愛の物語。
詩人 白楽天居易(はくらくてんきょい)によりつづられた「長恨歌」には、
二人の出会いから悲しみの幕切れ、さらに死後の世界までが切なく描かれ、
多くの人々に感銘を与え続けてきました。
奈良の正倉院には、
中国・唐の時代と時を同じくする様々な文物が保存されています。
歴史に残る玄宗皇帝と楊貴妃の愛の物語に思いを馳せ、
楊貴妃が最後まで身に着けていたと思われる当時の香袋を再現してみましょう。

『旧唐書』より「・・・上皇、密カニ中使ヲシテ他所ニ改葬セスム。初メ瘞メシ時、紫ノ褥ヲ以テ之ヲ裏ミタルモ、肌膚スデニ壊レ、香嚢ノミ乃オ在リ。内官以テ献ズ。上皇之ヲ視テ凄惋タリ。・・・」
「楊貴妃図」高久靄崖筆 静嘉堂文庫美術館蔵
「楊貴妃図」
高久靄崖筆 静嘉堂文庫美術館蔵

しかし二人の幸せなときは
安禄山(あんろくざん)という人物の出現をもって
悲劇へと流れこんでいくことになります。
言葉たくみに皇帝に取入った安禄山でしたが、
その人なつこい顔の裏では兵を起こす機会をうかがっていたのです。

『旧唐書』より「・・・上皇、密カニ中使ヲシテ他所ニ改葬セスム。初メ瘞メシ時、紫ノ褥ヲ以テ之ヲ裏ミタルモ、肌膚スデニ壊レ、香嚢ノミ乃オ在リ。内官以テ献ズ。上皇之ヲ視テ凄惋タリ。・・・」

貴妃が殺されたとされる場所は、
都であった長安から西へ七十キロの馬嵬(ばかい)という宿場で、
彼女は将軍の一人に絹の組紐で絞め殺されたとも、
黄金の粉を飲まされ毒殺されたとも伝えられます。

二十二歳で妃となり三十八歳でその生涯を閉じた彼女ですが、
最愛の女性を救うことのできなかった帝の嘆きは
いかばかりだったことでしょう。
しかし本当の苦しみは、この後にこそ訪れるのでした・・・。

歴史の宝庫といわれる奈良の正倉院には、
中国・唐の時代と時を同じくする様々な文物が保存されていますが
その中に福豆形の小さな香袋が7つ残されています。
愛らしいかたちと1.8×2.6センチという大きさから、
唐の貴婦人の間で流行した香袋と同じものではないかと推測されます。
ここに玄宗皇帝が愛する楊貴妃にあげた
香袋の一説がありますのでご紹介しましょう。

『旧唐書』より「・・・上皇、密カニ中使ヲシテ他所ニ改葬セスム。初メ瘞メシ時、紫ノ褥ヲ以テ之ヲ裏ミタルモ、肌膚スデニ壊レ、香嚢ノミ乃オ在リ。内官以テ献ズ。上皇之ヲ視テ凄惋タリ。・・・」

この文に登場する玄宗皇帝が楊貴妃にあたえた香嚢とは、
果たしてどのようなものだったのでしょうか。
身体が朽ちてもなお残り、
変わらぬ匂いを発していたといわれる香袋。
中には最上の龍脳や麝香が使われていたのかもしれません。
香料のもつ殺菌力でいつまでも朽ちずに残っていたその妙香に、
玄宗皇帝の心は締め付けられ心をかき乱されたことでしょう。

~復元・正倉院の小香袋~

歴史に残る玄宗皇帝と楊貴妃の愛の物語に思いを馳せ、
楊貴妃が最後まで身に着けていたと思われる当時の香袋を再現してみましょう。
小さな四枚の布をはぎあわせて袋にし、
絹の色糸を丁寧に編み込んだ組緒で飾ります
指を折りたたむと手の平に隠れてしまうほどに小さな香袋には、
調合した香料を真綿にくるんでおさめました。

四枚の布をはぎあわせて袋にし、絹糸の細束を編み込んだ組緒で飾ります
「復元 正倉院小香袋」
四枚の布をはぎあわせて袋にし、絹の色糸を丁寧に編み込んだ組緒で飾ります

指を折りたたむと手の平に隠れてしまうほどに小さな香袋には、
調合した香料を真綿にくるんでおさめました。

香料の調合 白檀粉 小匙半分
  桂皮粉 ひとつまみ
  花山椒 ひとつまみ
  ジャ香オイル 1~2滴
「花山椒の実」

心地よい香りを放つ白檀のパウダーに
ニッキといわれる桂皮の甘く辛い香りをあわせ
花山椒の粒をそのまま加えましょう。
中国料理の材料店などで売られている花山椒には、
ピリッとした独特の風味があり香りにアクセントをもたらします。
最後にジャ香のオイルをたらして全体をよくもみ込み、
楊貴妃が亡くなるその時まで肌身につけ愛していた香袋の香りといたしましょう。

麝香の香り

楊貴妃の香袋に詰められていたとされる“ジャ香”とは、
はたしてどのようなものなのでしょうか。
アニマルベースの代表ともいえるこの香りは、
中国やヒマラヤの山脈などに生息する
麝香鹿のオスの香嚢(こうのう)・ムスクポッドから得られます。

「麝香鹿」Wikipediaより 全長80から100センチほどの鹿に似た動物
「麝香鹿」Wikipediaより
全長80から100センチほどの鹿に似た動物

その白粉のようにも感じられる香りは、
香水のラストノートに感じるフレグランスといえば
多くの方が思い出されるのではないでしょうか。

動物性の香料は非常に持続力が長いので、
香水などの残り香に感じることができるのです。

交尾期を迎えたオスはおへその下あたりにある香嚢から
鼻に付くよう強烈なフェロモンを発散してメスを誘います。

そのクルミ大の嚢を切り取り乾燥させると
内部の分泌物は顆粒状へと変化していきます。
そのままの状態では我慢できないほどの強烈な悪臭を放つものですが、
1万分の1ほどに極々薄く希釈することによって、
植物からは決して得られない魔性的芳香へと変わるのです。

誘惑的なこのアニマルベースの香りは、
性をタブー視しなかった古代アラビアの人々の間で
大変にもてはやされました。
発汗や強壮の秘薬また、焚香や化粧料、
飲食の香りつけなど様々な用途に用いられ、
「千一夜物語」にも登場しシャーベットの語源ともなったシャルバートのように、
ジャ香やバラ水で香りつけされた甘い飲み物などが
イスラム圏の国々では広く流行していたようです。

「麝香鹿の香嚢・ムスクポット」香りの美学展1993年図録より
「麝香鹿の香嚢・ムスクポット」
香りの美学展1993年図録より

ジャ香鹿はその貴重性から乱獲の対象となり激減してしまいました。
近年では人工飼育が始まり殺さずに
香料を採取できるようになったともいわれますが、
動物愛護の精神からワシントン条約の規制対象となっていますので
自然死した鹿の麝香しかとってはいけないことになっています。
また、科学者による香りの分析が進み
天然に劣ることの無い合成のムスクが開発されていますので
香水業界でも動物を傷つけることのない
合成ムスクを使用するようになりました。

しかしながら、あの鼻が曲がるほどの動物臭の奥に
人間の本質を震わせる芳香が潜んでいることを不思議に思うのです。

神経質なまでに清潔がうたわれ悪臭といわれる香りが排除されつつある現代ですが
これら動物性香料は永遠に私たちを魅了し続けることでしょう。

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