『維摩経(ゆいま)』という経典の中に、
香積(こうしゃく)如来菩薩が住まわれるという
「衆香国」のお話が記されていますのでご紹介しましょう。
その国の楼閣は香でできており、園は香樹香花に満ち、
食する香飯(こうぼん)の香りは世界の隅々にまで漂うほどで、
これを口にしたものは心身が安楽になり全身から芳香を発するようになるといわれます。
香積如来は言葉による説法はおこなわず、
ただ香樹の下で香りを聞かせて天人たちを導きます。
菩薩たちは妙なる香りを嗅ぐことで仏の教えを理解し
「一切徳蔵三昧」の境地へと導かれるのです。
中国・敦煌の壁画には、
神聖な蓮華の香りを振りまき教えを説く
香積如来菩薩の絵が描かれています。
壺から香水をサーとふりそそぎ、
衣がユッタリとなびく様が大変優美ですね。
神秘に満ちた香りには、
魂を震わせ心を高みへと導く力が秘められているのでしょうか。
古代エジプトの神殿でアラーの神に捧げられた薫香、
教会で振り子のように揺れる銀香炉よりモクモクと立ち昇る香煙、
そして仏前で読経とともに焚かれる香、
いにしえの時代より祈りの場では香りが重要な役割を担ってきました。
人々は香りに包まれることで
神聖な空間に結界をつくるようにその場を清浄へと導き、
おおいなる神と交信する手立てとしてきたのでしょう。
人知の及ばない天が生み出した芳香には、
言葉を尽くした説法にも勝る力が宿っていることを改めて思うのでした。
泥の中に咲く神秘的な花”蓮”。
結実したその実の重さに頭をもたげ、
種を水中へと落として生涯を閉じるこの花に特別な想いを抱く方も多いことでしょう。
私自身も水面からスクッと頭を出しユックリと蕾を開かせる姿をながめる時、
まるで光が集められていくかのような眩しさを感じるのを不思議に思うのです。
その花は、早朝五時から六時にかけてユックリとつぼみを開き始めます。
主に雄シベから放散されるという芳香は、
真夏の厳しい陽射しを浴びるにつれ水面の蒸気と相まって
あたり一面に甘い香りを漂わせるのでした。
開いては閉じるを三日ほど繰り返した花びらは、
やがて力を失うかのようにホロリを散りゆき、後には青い花托のみが残ります。
蜂巣の実の成熟とともに、固くしわがれ褐色へと変化していった花托は、
二十日の後には生命の全てを子孫へと託し
力尽きたかのように頭をもたげるのでした。
「蓮の実のポプリ」には、
蓮の花托のほか木の実や末枯れ草花など、
終わりを告げ来世へと命をつなげた植物を集めて盛り付けましょう。
キラキラと水面を揺らす陽の光のように美しい龍脳は、
天上の花にふさわしい蓮に寄り添うようにして香りを放ち、
静かにその生涯を讃えます。
蓮の花托(大小) | 4~5ヶ |
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松笠など木の実 | 適宜 |
小判草 | 一束 |
その他 | 末枯れた紫陽花や蔓などの草花 |
○ 香料 | |
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大茴香 | 2ヶ |
丁子 | 小さじ半分 |
桂皮 | 大さじ半分 |
龍脳 | 小さじ半分 |
匂い菖蒲根 | 小さじ1 |
白檀オイル | 3滴 |
丁子オイル | 1滴 |
安息香オイル | 2滴 |
最初にそれぞれの植物の汚れを祓い清めておきましょう。
小判草は軸をそろえ麻ひもで結び束にします。
大茴香・丁子・桂皮の三種の香辛料をあらく砕き、
匂い菖蒲の根に神聖なる白檀・丁子・安息香の精油を加えてもみ込みます。
植物と香料をあわせ、最後に水面のようにキラキラと輝く清らかな龍脳の結晶を振りまき
天上の花にふさわしい高貴な香りにしあげましょう。
古代インドやマレイ・スマトラなど熱帯の国々には、
龍脳樹というフタバガキ科の常緑高木が生育していました。
その年月を経た老木の割れた裂け目からみつかったのが、
強烈な香気を放つ顆粒状の結晶 “龍脳” だったのです。
しかしそうした天然の龍脳は非常にまれにしか発見されず、
採れたとしても極々わずかな量でした。
そのため当時は沈香や麝香そして黄金よりもはるかに貴重な宝物としてあつかわれ、
香料というよりも王侯貴族のための“高貴な秘薬”という存在でした。
キラキラと霜柱のように輝くその白い結晶は、
割れるような頭痛を一瞬にして癒したといわれます。
このお軸との出会いは父が亡くなったときでした。
暑い盛りでの父の葬儀の時、古物を扱っている義兄がそっと飾ってくれたのです。
私の心が現世を去り天へと召した父へと向かっていたからでしょうか。
連なる端正な文字を眺めていると何とも表現しがたい美しさに心が引き込まれます。
それ以後このお軸が私の心から離れることはありませんでした。
一年を経たころ、
父の供養にぜひ写経を飾りたいと思い立ち義兄に相談したところ、
このお軸を譲ってくれたのです。
それからこのお軸は私の無二の宝物となりました。
蓮のポプリとともにしつらえると、静謐なる香りとともに
目を伏せ静かに微笑む頑固で一途だった父の面影が思い出されます。